昭和三十九年十一月十九日 朝の御理解


 最近、タイミングという言葉がよく使われる。タイミングが良かったとか悪かったとか。私がいつも申しますように一分一厘の間違いのない神様の働きと。神様のおかげは一分一厘の間違いもないのでございますから、その一分一厘の間違いのない神様の働きをです、私の信心によってパチッとこうキャッチするとでも申しましょうか。おかげを頂くためまあーたとえて申しますなら、皆さんご承知のように、私が五時にご祈念の座に仕えさせて頂きます。これは私がまあー大袈裟ですけど、命懸けです。この事だけは。一分だって遅らかしちゃならんとね。神様が私が五時にここに座ることを御承知である。例えば神様に一分間だけでもお待たせしちゃ相済まんとこれが私の気持ちなのです。
 さあーところがその生身をもっとりますから、どうした間違いでしたか今朝は二階の時計と下の時計がだいぶずれておるわけなんです。本当にうかつな事であると、私はまだ充分時間があると思うて降りてきて、降りてきたら五時である。もう降りてきてそのまま御神前に出らして頂いた。まあーおかげ頂いたと思うんですね。人間の知恵やら力ではどうにも出けない事があるんです。もうそうだと思い込んでおりましても、あのー違っておる場合があります。ですからね只今のように、ですからお繰り合わせを頂かなければ出けんでしょうが。例えば私が二分なり三分なりでも遅れておったと致しましょうか。もう私は神様に対してどんなに申し訳の事で、今日一日かからなければならんか分からないけれども、そうした私の切実なその願いというものがです、これだけは他の事はなにも修業が出けませんからこの事だけはせめて、一分一厘の間違いのない努力をこちらがさせて頂くという願いを持っておる。
 こちらが例えば間違うておっても神様の方が合わせて下さる。ピシャッと。最近私は相撲を観にいきました。少し相撲が続いているんですね。分からん分からんけれども、まあーそのこの頃時々見せて頂くんです。テレビでね、お相撲さんとお相撲さんがスッと土俵の上に立って何回も何回も仕切りをやり直しますよね。時間いっぱいになった時は、もうその余裕がない。そしてその呼吸が合うと申しますか、いわゆるタイミングよくパーッとこう大きな力と力が出合う時、なにかそこに火花の散るような思い感じが致しますでしょうがね。私どもと神様の間にはあー言うような一つの呼吸というものがあるんです。皆さんそんな体験はないですかね。
 何かお願せんならんことがある。どうも心さっぱりせん。御神前に出てからご祈念しょうと思うて、いくらご祈念してもご祈念しても、大祓を何巻繰り返して上げてもです、何か空々しい神様が一つも受け取って下さらないというような時があるね。いわゆるタイミングが悪いのですね。呼吸が神様と私どもの上に合わないのです。私どもが例えばその朝は、こうして言わば長々とご祈念させてもらいます。けれどもさあーお月次祭などには、皆さんご承知のとおり私か御神前にぬかづくのは、それこそ二分か三分かけど、それまでにさまざまな言わば心の上にも精進がなされてある。もう神様の前に出る時にはカチッと私と神様があっておるから、あれで勝負がつくのです。例えばおかげを頂きまして有難うございますとこう私の言う有難うございますを、神様がこう受けて下さる感じ。もう受けて下さったという感じがあったら、もうそれでいいと私は思うんです。神様相済みませんと神様が合点して下さるような感じをこの心の中に頂けたらもうそれでいいのです。いかに長々しく長たらしゅう祝詞を奉上致した。願うこと頼むこと、いっぱい申してみましたところで、神様が向こう向いてござるなら空々しゅうしてござるならそりゃもう通うてないということ。そこで私は思うのです。
 けれどもね、そうした神様と私どもとの間の言わば、タイミングようおかげは頂きたい。一日間違いのないお働きを本当に頂きたいと。必要なものがあれば必要なものに応じてカチッとお繰り合わせが頂けるとそういうおかげを誰でも願わん者はなかろう。頂けるものならそういうおかげを頂きたいというのが、人間の願いです。そこにお取り次を頂いてお取り次によって、そこにその調子をお互い整えてもろうて、間違うておるところは、そこは間違いはいかん。例えば市役所なんかに参ります。いろいろな提出書類がありますでしょね。一字間違うておっても、やはり訂正をして訂正判を押さなければ受け付けてくれないでしょ。言うならここではそういう受け付けの役をしておるようなもの。言わば御理解はそういう私は、そこが間違うとらんのか、そこがどうかおかしいのじゃないかと私が言うた通りしてきたかと書いてきたかというような事のための私は御結界だと思うんですね。ここいくら言うたっちゃ同じもの出しよる。これじゃこれじゃいかんち。これじゃ通らんち。向こうは受け付けちゃくれん。ここを改めようともせずに、何十辺出したっちゃ同じ事。そして市役所の係の人は不親切だといったようなことを言う。おかげを受けきらんでおって神に不足を言うような者があると仰る。その事だと私は思う。
 z私は今朝からその事をですね。その神様と私どもの間にそうした呼吸の呼吸がピッタリ合うということ。タイミングようご祈念が出けた。タイミングようおかげが頂けてるとそういうおかげを頂くため、どうしても神様と私どもとの間に良いタイミングを頂かなければならないというような事である。それには大体そんなら根本的にですどういう気持ちにならしてもらい、どういう在り方にならしてもらい、信心にならしてもらったら、そりゃ神様が人間氏子のことの事でございますから、昨夜でした。皆さん丁度二十名ほど残っておりました。帰るのはもう十二時半位だったろうね。一時だったろうね。そんでまあー一番さよならと言うて帰ろうと立ち上がろうとする時です。神様から私頂きました事が、あーなんち言うたかね、生ものでございますから注意致しておりますけれども、何分生ものでございますからという事を頂くんですね。注意を致しておりますけれども、何分生ものでございますからとフツハイニモそれがあるということです。
 私どもが生き生きと私は椛目で信心させてもらうなら、そういう信心させてもらわなつまらんと思うね。干物のようないわゆる乾物のような干し物のような信心じゃつまらんと。そんで皆がその言うてどうぞ注意致しておりますけど、生ものの事でございますからと言うてから、皆が帰りよるんですね。どこにどういうご粗末ご無礼があるやら分かりませんということ。生身の事でございますから、どこにご粗末ご無礼があるやら分かりませんというところをです、平に平にお許しを頂くという謙虚な態度が必要だと私は思うんですねと言うてです、それこそ何と言うですかもうすましてから、その屁もひらんちいうごたる顔しとる人がありますよね。人間ですからどこにご粗末ご無礼があるやら分からん。相分からず。
 昨日のお月次祭のご説教の中に私が申しました言葉の中に、勇み立つという言葉があったですね。勇といえば、ご神前にお勇がつくでしょうが。だから私どもの心の中にも、あのお勇がなからないかんですよ。やはり生き生きと頼む、生きたものと生きたものがピシャッと合う時ですね、ビシッとくるようなものが感じられるような私はおかげを頂かなくてはいけん。そのためにいかに私どもが神様に向かう心が、生き生きとしたものでなからなければいけんかち、眠り半分のものじゃいかん。参らんならんけんとお願せんならんけん参りよるというような事じゃつまらんね。生々しいものがある。私は信心には必要だと思うね。
 ピシャッとこう神様と私どもとの間におかげを頂く。そんなこと私思わせて頂いておりましたらですね、目もきく歯もきく鼻もきくということ頂きました。椛目の信心は、言わば菊の花の信心が内容になからにゃならんと言われておりますたいね。喜び菊の花のような香り高いと気品のあるというかね、私どもそういう一つの目指しをもって自分の心の中に咲く花は、本当に菊の花のような言わば花が咲いておるかどうか。菊の花どころか、毒々しい、いやらしい、見苦しい言わば花が咲いておる事はないだろうかと。いつも自分の心の中に私は深く追求させてもらい、自問自答させてもらい、それに取り組んでおかげ頂かなならん。そういう時に、神様ここの御結界を通して、そこが間違うとるじゃないか。ここをこう訂正してこなければいけんと。言うならそういうような場合だと私は思うんですけどね。私は目もきくという事は、心という事だと思うですね。形だけでは、いかにも素直なようにある。
 最近、私、最近感じる事ですけど、古賀先生が非常にこの言わば献身的なんですね。信心、私に対してもそうなんです。それが感じられるです。けど、それはどこまでも勤めておるのです。だから古賀先生と私との間に本当の言わば、タイミング良うこうおかげ頂くというところまで、いかなければほんなこっちゃないと思う。けどもならこの勤めるということがなら先ず、先もって大事だという事なんです。だから先ず勤める稽古を一生懸命しなければいけないということ。そこに勤めずしていつも交流しておる。どこにおってもそんなら親先生と古賀先生とが交流しておると私と神様が交流しておるならば、その私と神様との交流が私と古賀先生の間に交流が始まらんはずがない。勤めておるという時にはですね、やはり又タイミングずれる場合があります。いくら勤めておってもさあーそこが生身を持っておる人間のことでございますから、これが勤めずしてそうならして頂くところに何ともかんとも言えん妙というものを感じます。そこをまあ目指すのですけども、だから勤めずしてはとても私は。
 昨日の夕べの御理解じゃないけどもね、人情と神情の間中に真というのが、真心というのがあるということ。神ながら主義じゃだからいかんと言うことね。人ながら、人間の人間心の限りを使わせて頂く。それも真心とは、親切とはという追求をさせて頂いて、そう私は精進又は努力がなされて初めて神様との間のいつでも交流が出けれる状態というものが生まれてくると思うんです。形の上では菊の花であるけれども、ハイハイと言いよるけれども、心では菊の花ではないような事がないではないだろうかと私はここんところを一つ分からにゃいけん。先代さんの唄の中に、この花は菊とは言うど耳はなしと。この花は菊とは言えど耳はなしと。顔はありとて飲み食いもせずという唄があります。椛目に御神縁を頂いておると椛目の信者でございますと神愛会の会員でございますと、いかにもやはり菊の花であるけれどもです、菊とは言えど耳はないというような信心じゃないだろうか。いくら聞いたっちゃ、いっちよん聞きよらんと同じ事。顔はあっても飲みも食いもせず、それを本当に味わうともしない。それを自分の血肉にしょうともしない。精進も精進努力をしょうともしない。そうではいつまでたっても同じ事。いつまでたっても、言わばお相撲さんのあのタイミングが合わない時のように、待った待ったばっかりお互いが言うとるげなね。一緒にさっと合う時に、神様が待ったと言いなさるならどうなりますかね。
 もう一つ、一分一厘の間違いのない神様の働きを、私どもの心次第によってです、一分一厘間違いのないおかげを現わしていくという事が、神様も喜び私どもも有難い。ですから、お話をすればこれだけなんですけれども、これを実際に自分の上に今日一日なら今日一日の上にです、本気で目もきく歯もきく鼻もきくというような在り方にならせて頂こうとするとです、実際の問題に直面すると、どうあることが目もきく歯もきく鼻もきくと言うことになるか、私昨日夕べの御理解を頂き終ってから、神様、今日の御理解何とはなしに理屈ぽい御理解だとこう思ったんですよ。例えば同じような言葉をこうこう並列したような御理解だったですね。真とは真心とは親切とはと言ったようにですね。そしたらあのご神眼にね、頭の上にカボチャをのせておるところを頂くんですよ。成程この信心は、この図からいくと、馬鹿でも阿呆でもこう真心一つあれば、おかげ頂けるという事になっているんですけども、やはりここにはお道の信心は話を聞いて助かる道と仰るですからね。本当に頭が本当に馬鹿であって理解力がなかったら、やっぱりいけないという事を感じたですね。そのなかからカボチャと言うのは、そんな風に感じるですね。
 もう心一つで、だからとこう先ず先生が仰ることは、五と五を足せば十になる。それから五を引けば五になるというような言わば御理解だったでしょ、夕べの御理解。言うならばですから、頭がずその計算くらい出来なければです、又じっと今日の御理解を頂いてみてです、あーしてこうしてというように自分の頭で裁けるだけの、私おかげを頂かなければダメだと思うですね。理解が理解としてならない、分からない。だから今日の御理解はちょっとむつかしかったとじっと考えてみた。分からなかった。そんならもう一辺そこをお伺いしてみて、いや三辺でも五辺でも繰り返し分からしてもろうて成程こうなってあーならなければという風に感じられたら、私は追求の意味合いにおいてから、私は誰でもよい。尋ねにゃならん。 昨日は、ある方がここでおかげ頂いておりましてですね、朝からの御理解を何辺も何辺も、自分でも三辺くらい位繰り返し聞いておられました。その昨日その思うたんですけどね、昨日朝のご祈念御理解終らせて頂きまして、十時あたり下がるまでですね、誰かがせ御理解頂いておりました、夫婦で。私下がってからもう今日はもう大繁盛だったと、私がそういう気がするんですね。私はいろいろ商売人でしょ。ですからその本当に今日はよう売れたという感じがするんです。御理解がありよってもスーッと帰る人がある。今日の御理解、どんな御理解じゃったろうかとも言おうともしない。御理解聞かして下さいともせん。御理解の言わばテープに触ろうともしない。言うなら頂いとってもソーと帰る人がいる。何かですね。私は本当に実感です。これはひやかしのごたる感じがします。御理解を真剣に頂いて下さったときには、はあーよう売れたという感じが致します。今日は例えば、朝のご祈念に遅れた。昼頃お参りさせて頂いた。夕べの御理解は朝の御理解はというて聞いて下さる人は、たくさん何か買うていって下さるお客さんのような感じがするね。
 久留米の有名なてんぷら屋さんのおやじが言うておる。あそこで私、お食事させて頂いた時、あのタレのおつゆを私がきれいに頂くんです。いつも。それからもう大将のごたる風して頂いてから、もう本当お金いらんちゅうごたるあるち。なぜて。てんぷらをこのおつゆに命を懸けておりますち。それをたっぷり残してですいくお客さんがあるち。もう呼び止めてからこのことだけはち言いたい気がするって言うんです。ここで私が例えば、朝晩にこうして御理解説かせて頂く。これが私の言わば、命なのである。もう昨日ばっかりはとにかくずっとあの七時間という間、御理解のここでは頂きぱなしであり、それを頂こうとすればいつでも頂けるというような風でした。来る人ごとに御理解頂かして下さいて言うてから、聞きよんなさるわけです。
 そんなわけで昨日おられたその方が、自分も何辺も聞きよんなさる。何辺も何辺も繰り返し頂いておられる。まあー言うなら良かお得意さんだな。今日はたくさんこの人に買うて頂いたと言う、その人に本当にお礼を言いたいような心が、気持ちが致します。わざわざ何時間か時間を費やしてお参りしてきておって、そしてから御理解一つ頂かずしてツーと帰る。もちろん何かそこに用事があればいざ知らずね。?頂かずして帰るのは、本当にこれは私の実感として何かひやかし役のような感じがします。もちろん商売人はそのひやかし役でも大事にしなければならんと言われておりますから、もちろん粗末にするわけではありませんけど、そんなに違うです。皆さんもそういう意味合いで、良いお客さんになって頂かにゃいかんと私は思う。椛目に来たら、例えば時間なんか言うちゃおられん。しかも只今、私が申しますようにですハイ、今日の御理解はちょっとこんがらがって分からなかった。又表現不足であった。今日の御理解どうも理屈ぽかった。それはですやはり、自分の頭で一応こなして、そして自分の心で又こなすという事になってこなければならないとこう思うです。
 だから今日の御理解でもそうです。本気でですね。一つの芽もきく葉もきく花もきくというような、信心にならせて頂いて始めて、そこにそういう精進がなされて始めの間はぎこちないかも知れません。それは今、私どもが幼稚園のものであるけども、勤めておるという事はかわ、それを勤めずしてそうあらして頂けるなら頂けるようなおかげを頂けた時です、私はきっちりしたおかげとタイミングの良いおかげが頂けると思うです。そういうおかげを目指さなければならん。
 生きた神様だから、こちらが生きた心をもって縋れば願えばです生き生きと生きたおかげが頂けてくるのですよね。そこんところを今日は一つ精進の対象になさって、口だけではハイハイと言うようとじゃなかじゃろか。心からハイハイと言いよるのか。心だけハイと言うたっちゃ形がなかったらこりゃどんこんいかんね。もう一つ椛目の御理解をもう頂きこんでおる。それがそしていつも無理をせずに自由自在にそれがその活用できる、頂けるというようなおかげを頂くところまで一つおかげ頂いて頂かなければならんと思うのです。おかげ頂きました。